遠距離恋愛日記

8/18(土)に日之影町に行ってきました。
「日之影町」といえば??・・・そう!青雲橋、天翔(てんしょう)大橋。
見応えのある眺めがいいですよね。




ってことで橋ではなくて、「日之影町民センター」に行ってきました。
何しに行ったのか・・?
ずばり ↓ です。



映写会と料理教室があると聞いたので行ってきました。

毎年してると?って聞いたら、今年が初めてとのこと。
昨年まで子育連(子ども会育成連絡協議会)がしていた事業を、ことしは若者と一緒になっての開催とのことでした。
子どもは映画を見てる最中でしたが、地元の若者は料理教室の段取り。



メニューは何と!カレー(-_-) ・・・しかも中辛(*_*)


「カレーの王子様」(←ヱスビー食品の商品。)しか食えない私にとっては厳しいメニューでした。


ところで、日之影町というと先日の台風5号により大きな被害を受けたところですよね。どげな案配じゃろうか??と思って聞いてみました。
すると・・
○台風上陸当時は、雨がものすごかった。川もはんらんするんじゃないやろか・・くらいヒヤヒヤものやった。
○日之影町見立地区は道路が寸断されたことにより、物資を今でも徒歩で運んでいる
○日之影ばかりがメディアに取り上げられているけれど、北方町(旧ね)もだいぶ被害がでてるんだよ。
のようなことを、まざまざと聞いたところでした。

びっくりしたのが、道路の寸断は1箇所では無く数カ所で起きており、見立地区の奥の方では、物資を大分県の宇目をまわって運んでいるとのことには驚かされました。

ちょっとでも場所がずれていれば、椎葉も同じような状況になっていた可能性もあり(環境とかは違いますが)隣で起きたことからら・・とは考えられなかったところです。



話は戻りますが、料理教室の準備が早く終わったみたいで、だべっているうちに・・・手品の講習会になってしまいました。







で、早速子どもの前で実演。・・けれど怪しいのかお兄ちゃんが恐い?のか知らないけれど引き気味やったです。





んな感じでいろいろと参加して、日之影を後にしたところでした。
カレーは食ったのかって??・・・どうしたかは内緒です。



*日之影町立病院。駐車場も広いし、綺麗な建物でした。


*実は全国消防操法大会に、3年前宮崎県代表で出場したのが、日之影町消防団の面々。スゴイ・・・。憧れてしまいます。



*帰りに撮った写真。
みなさん、この雨どいのようなもの、何じゃろか??って思ってませんでした?
(日之影町に入ったとたん、たくさん目に付きますよね)
聞いてみました。
答え→農業用の用水路(水を道を挟んだ田んぼなどに運ぶやつ)だそうです。
たま〜に、トラックが用水路に、荷台の荷物を引っかけて落としていくことがよくあるそうです。

ってなことで、またどっかで会おうやね!

08/09: 長崎の巻

だ〜いぶ、ご無沙汰しておりました。
先日(8/8・水ね)長崎に行ってきました。


何で長崎(?_?)
ところで、今日(8/9・木)は何の日?
・・・そう、今から62年前に長崎に原爆が投下された日です。
長崎ではこの日を中心にして、様々な取り組みがなされており、その1つに参加してきました。
メディアでも「原爆投下はしょうがなかった・・」論や、北朝鮮政府による核の脅威など、いろいろと取りざたされていますよね。
いろんな情報や、多くの意見が巷をにぎわしていますが、自分なりにもじっさいどうなんだろ・・?ってのがあったのも、参加する1つのきっかけになりました。
(え?後付じゃないのって?・・・想像におまかせします)

ところで、自分が参加したこの「平和集会in長崎」、一体何をするのか・・・興味ありません?


(↑タイトルが違うって?? 細かいことは言わないように)

自分が参加したのは2日目のプログラムだったのですが、
○午前→被爆をされた方を訪問し、そのナマの声を聞く「被爆者訪問」
○昼→お弁当で昼ご飯
○午後→日本人・韓国人の若者同士での、原爆についての事を考える「シンポジウム」
という流れでした。



まず、「被爆者訪問」
実際に原爆投下当時、長崎にいて被爆された方からの話を伺いました。
原爆が投下される前は、やはり食料難・そしていろんな物品が不足していたそうです。(これはどこも変わらなかったのかな)
そして、原爆投下。
投下直後から現在に至るまでのお話をいただきました。
・たまたまその日は空襲警報が発令され、それが緩和され警戒に切り替わり人々が安心して過ごしていたこと。
・閃光が走った瞬間、「機関銃で撃たれて死ぬんだ・・・」と感じたこと。
・仲間が大勢なくなったこと。
・焦土と化した長崎の有様。
・結婚してできた子どもが生まれるとき、手足がきちんとあるか心配だったこと。
・原爆症を今は発症していないが、高齢になるとその出現の頻度が高くなること。
・今は当時の被爆者より、2世・3世の方が多くなってしまっている事実・・・など。

ナマの言葉で語られたその事実はとても重いものでした。




昼食を取って昼から「シンポジウム」
(昼飯は食えたかって・・?バッチリ食えました。うまそうなお弁当でしたので)
日韓の若者同士での討論会でした。
印象に残っているのは、パネリスト(どっかの大学教授だったですわ)の言葉。


(↑ここでしたのではありません。。この近くのほーるでありました)

「日本は唯一の被爆国として、このような事が2度と起きないようにとの願いからいろんな取り組みを行ってきた。
ところで、それ以前に日本が行ってきた様々な事柄もきちんと知っておく必要がある。韓国や中国を植民地にしてきたこと、
真珠湾攻撃、南京大虐殺の事実、戦後補償の事など。それらをきちんと認識した上でないと、この原爆はひどいものだということは世界には伝わらない。」

「戦争はやられたらやり返す、『報復』の連鎖がある。しかし、日本は広島・長崎に原爆が投下されたからといって、相手をどうにかしてやろう、という事はなかった。
(今でもそのような世論はないと思っているが)ナゼだろう? それは、我々が受けた悲惨な体験を2度と他の誰にも味わってほしくないからという願いがあるからである。
憲法9条をめぐり、いろいろな見方が出ているが、本来はそのような趣旨からできたものではなかったのか」



日本人はもちろん、韓国人の方もいることから、「喋っては通訳」の繰り返しでしたが、今までとは違った切り口で考えさせられました。



ところで、今世界に原爆がどのくらいあると思います??
答え→約2万7千発。
これは当時の広島型原爆の30万発に匹敵する威力があるそうです。
(1日1発づつ落としていっても、800年かかる。。)

次の質問。日本ではどのくらいの被爆者がいると思います?
答え→約26万人。(椎葉の人口の約75倍。。)
その中で厚生労働省が「被爆者の病気を、原爆によるもの(原爆症)」として認定しているのは、2300人程度みたいです。
(あまりの少なさに驚きでした)


平和だと思っている今の世の中に住んでいる自分たちは、原爆のことを小学校の教科書とか、夏休みの友(←今もあるのかな?)また多くのメディアを通じてのみしか、知り得ることができませんよね。
しかし、それは私たちが実際に手に取るまでに、少なくともいろんな人の思惑が入ったものになっているハズ。
(↑決して、故意にねじ曲げているって事じゃないですよ)
実際に体験された方からナマの声を聞くことの大切さを今回は経験しました。
また、「原爆」というとどうしても顔を背けたくなりますよね?(私はそうでした)ほんの少しでもイイから逃げないで真正面から見つめてみることの大切さを味わえた気がします。
原爆で亡くなられた方、また戦争により亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。



ところで(←やらたにこの接続詞が多いのは勘弁)、原爆を受けた長崎はどのように復興したのでしょうか?
たの空襲を受けた都市部もそうですが、一体どんなんだったろう・・?
(原爆の被害を受ければ50年〜100年は草1本も生えない、と当時は言われたそうです。)
その答えを知る石碑をたまたま見かけました。




(↑読める??)

ん〜そうだったのか。。。当時の様子をほんの少しかいま見たような気がしました。



帰りに、島原(やったかな?)に寄ってきました。
そう、そうめんの名所。けれど、カステラの看板がいっぱいあるんです。


い〜ながめでしょ?

☆今回はちと重かったけれど、ボチボチ書かしてもらいますね。

ページのトップへ戻る