椎葉村トップ >  村の根元記

根元記

根元記

寿永4年(1185年)、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は、海、陸、を経て諸方に離散した。今も平家落人の地と言い伝えられるところが、九州、四国を始め全国に100ヶ所を越えると言われている。九州山脈のもっとも奥深い椎葉、五ヶ荘は地理的にも格好の隠れ里とみられ、代表的な落人の里として今に言い伝えられている。

鶴富姫

椎葉の歴史を記録した「椎葉山根元記」と「椎葉山の由来」の2編は、村内に伝存した貴重な文献である。
その記載内容から考えて、江戸中期に編纂されたもので、おそらくその大部分は、山中が人吉相良氏の支配下に入った明暦2年(1656)直後に書かれたものであろう。
平家落人伝承にはじまり、獺野原合戦、鷹巣山指定、向山十三人 衆の乱とその鎮定のための上使派遣、鎮圧と幕府領編入代官を送り込むことをせず山役人を中核とする相良氏の椎葉山支配機構は、椎葉山戊辰年(1748)上納分までで終わり、全体構成は根元記も由来も骨格は全く共通している。

異なるのは表現で、「根元記」が原史料を忠実に利用しようとしているため固く稚拙で筆写のたびごとに当て字はもちろん、誤字、脱字が多く、何回となく加筆訂正が行われて、未定稿の感さえある。
対する「椎葉山の由来」は、本文中に原文書の引用を極力さけ、くだけた物語風に展開されている。
これは根元記が村役場に伝存したのに対して、椎葉山の由来は十根川神社の社宝の扱いを受けてきたことに関係するのであろうか。
椎葉に関する文献資料は村の内外を通ずれば少ないわけではない。
しかし、幕府以前の椎葉村のおもかげをのぞかせるのは、この2書あるのみである。
「根元記」の伝承についてはさまざまな見方がある。

根元記の伝承について「椎葉村の歴史」の筆者は、
この山中の開拓がいつ頃から始まったのか?どんな人々によって開かれてきたのか?
集落の中には開拓にまつわるいくつかの語り伝えもあるが、 それにもまして、民謡「ひえつき節」と重要文化財「鶴富屋敷」に代表される平家落人たちの、世を避けたわびしい山住まいと、 この追討に下向したという那須大八郎宗久の物語は、自分たちの血の中に、平家や那須氏の血を意識しながら今も村民の間にひそかな誇りを持って語り継がれている・・・と説明する。

また、前椎葉村史編集者は次のように解説している、
平家山、平家谷などというところは各地に多いが、そこへ源氏の追討軍が押し寄せたなどというところは椎葉の外にはあまり聞かない。
このことは重要である。
当時鎌倉幕府にとって、このように定かではない風説に基づいて、討軍を九州まで下向せしめる必要があったであろうか。
(中略)これよりさき、源頼朝は、京都を後に西国に下ろうとした義経を捜索して追捕することを理由に、国に守護・地頭をおいた。
鎌倉幕府の当面の敵はもはや平氏ではなく、源義経や行家などの同胞であった。
本村では、十三人衆の乱と椎葉山討伐に似た事件が鎌倉時代にもあったと想像して、平家追討の伝説を生んだものではあるまいか。
さらに、本村において、特に見逃すことのできないものに「厳島神社」がある。
安芸の「厳島神社」は、平清盛が守護神として崇敬した社であることは世に有名である。
椎葉のごとき山村に縁のないはずの海神である「厳島神社」をこの地に勧請しているのは、信仰深かった平家一門の所業と見る以外に考えられない。
・・・と説明している。

民俗学辞典

柳田國男監修「民俗学辞典」には平家村について次のように記している。
少し奥深い山や辺僻の海岸など、やや風俗の異なった土地には平家の落人が隠れたという伝説が多い。
有名なのは九州の五箇荘・椎葉村・米良・喜界島その他の薩南諸島、四国では祖谷山村、北は白山山麓の谷々や、信越の境の秋山郷から福島県の只見川の谷まで、全国を詳しくみれば60~70ヶ所以上はあると思われる。
そこへ一人一人の公達が分かれて行ったとしても、とても足りまいと思われる祖先を、どうして申し合わせたように信じていたかが問題である。少なくともそうした村々が高い誇りをもつ新移住者の家であったことは確かで、史書にそれを求めれば、高貴にしてしかもその末の明らかでない家は平家一門だけだった。

だから、この部落もその子孫ではあるまいかというのがその主要な根拠だったらしい。
それに人里はなれて言語風俗にも多分に昔風があり、歌や踊りの手ぶりに都をしのばせる優雅なものがあればなおさらであって、つまりは山村の生活が前代を保存し、前代生活には類似したものの多かった事を知らない人たちが、この伝説を育てたのである。
多くの長者譚や貴種流寓の伝承とも同じく、この伝説にも日本人の遠い都をあこがれる心が認められると思う。・・・
「乱世を立ち退ぞいた一門眷属とともに孤立経済をたてていた。」いわゆる隠れ里であり、その子孫によって開拓したというのであるが、これは平家一門のみならず戦乱を避けて入り込んだ他の人々も同様に理解されてよいであろう。

ページを印刷する

ページのトップへ戻る